片道1時間半かけて、朝の暗いうちから山へ向かう。
仕事現場の山奥で、毎日スギ、ヒノキを伐採する日々。
森林組合 森林整備課 林産班
班長として、森林組合で働いていました。
林業とは全産業での事故・死亡率も高く、
毎日の作業で絶対の安全第一は心掛けてはいるものの、
勤務時間中は全く気を抜けません。
日常的な作業の中で、
擦り傷、切り傷などはケガのうちに入りません。
そんなある日、慣れた伐採作業の中、
思わぬところで、自分の伐った木に吹っ飛ばされ、
10メートルほど斜面を転がり落ちました。
幸い打撲程度で済みましたが、
当たり所が悪かったらと想像するとゾッとします。
遠距離恋愛していた妻と結婚して1年、
妊娠がわかりました。
待望の赤ちゃんが産まれる期待と喜びとともに複雑な心境に。
自然に囲まれて、楽しくて、本当に大好きな仕事だが、
このまま続けて、五体満足で家族を守っていけるのだろうか?
不安が日に日に大きくなっていきました。
初めての出産に立ち会いたかった私は、
妻が選んだ、
自然分娩で有名な地元の産婦人科に何度も付き添い、
2人でゆっくりとその時を待っていました。
ある日の昼に妻からの連絡。
あれよあれよとその日の夜には、無事元気な長男が産まれました!
命の誕生の感動に立ち会ったことは、一生忘れないでしょう。
妻と長男も退院し、
日常の生活に戻り数週間、
見ず知らずの携帯番号からの着信。
電話口の声で、誰からかはすぐに分かりました。
前職でお世話になったタイ支店の社長からでした。
「そろそろ戻った来ないか?、
家族で赴任はどうだ?」 との言葉。
先ずは、もう一度日本の本社で1から勉強し直し、
1年後にはタイ支店を引き継いで欲しいと。
本当にうれしかった。
何か新しいことが始まる予感がしました。
元々従事していた仕事であり、同僚の協力のおかげで、
徐々に勘を取り戻し、現地出張の回数を重ねました。
言葉の壁はまだまだあるものの、
就労ビザも取得し、
遂に現地駐在員になりました。
任期は5年。
私を含めて6名ほどの小さな完成品メーカーだったが、
その分、やりがいも有り、
代表としてビジネスを勉強できる絶好の機会でした。
また、タイをハブとして、
東南アジア各国への貿易も私のミッションとして有りました。
先ずは、いち早く現地での商習慣・仕事に慣れることです。
その後すぐに妻と長男を呼べるように、
生活基盤を整えることに集中しました。
単身 仕事に四苦八苦しながらも、
妻と子供にこんな景色をみせてやりたいなぁだとか、
このローカル屋台がビールに合うよ~だとか、
家族みんなで新しい経験をすることが、
本当に本当に楽しみでした。
駐在から数週間がたったある日、
次男の出産のため、妻と長男は、田舎に帰っていました。
数日間、微熱が続く長男は、
夜になって呼吸が激しくなり、
普通の風邪とは様子が違いました。
その日のうちに検査入院。
数日間の検査の後出た診断が、
ランゲルハンス細胞組織球症という難病。
すぐに良くなるだろうとタカを括っていましたが、
インターネットで調べるうちにどんどん不安になりました。
遠い異国の地で、家族の安否を思う時間、
何もしてやれない自分の無力さを悔やみました。
すぐに日本の本社へ事情を話し、了承を貰って一時帰国。
病院へ直行。
担当医からは、
「長期の闘病生活が予想されるので、
お父さんはご家族のために、傍についていてください。」
何とも言えない感情が入り混じり、涙が出た。
私は父親として帰国の決断をしました。
それから先の見えない長い闘病生活。
妻の故郷の総合病院から、私たちの暮らす地元の総合病院へ。
幾度もの抗がん剤治療もうまくいかず、
血液移植で有名な大学病院へ転院です。
私と妻の骨髄は残念ながら適合せず、
骨髄の適合するドナーを見つけるには、時間が掛かりすぎます。
長男には、ドナーを悠長に待っている時間はありません。
お母さんと赤ちゃんを結ぶへその緒の中の血液、
臍帯血移植しか選択肢は無かった。
移植後の経過観察にて、
重篤な感染症から集中治療室へと移った時は、
耐えられなく、
長男がダメだったら、私は後を追う覚悟でした。
夫婦でいくらでも泣きました。
2年の闘病生活の末、
何度か危ない状況は有りましたが、
長男は晴れて、退院することが出来ました。
まだまだ、定期的に投薬・検査入院が必要で、
日々の生活にも
気を付けなければならないことが多いですが、
元気に保育園に通っています!
家族みんながつらく苦しかった分、
これからもっともっと笑って過ごしていきたいです。
このような経験は誰しもすべきではないし、
世界から病気が無くなってほしいと考えます。
健康でいられることは、幸せを作る一つの大切な要素であり、
家族皆が健康であることで、家族皆の幸せに繋がるのだと思います。


